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ポンコツ凡人素人による香水のたわ言の書きつけ/Twitterの寄せ集め

*No.5/ CHANEL, 香水について書く

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香水についてまとまった文章を書きたいね、と一緒に取り組んでいた幽霊さんのブログには、No.5の経験が丁寧に記されています。香りが漂ってくるような素敵な文章なので、ぜひ併せて読んでもらいたいです。

CHANEL N°5 あるいは私達だけの素肌 - polar night bird

また、本記事内の各年代のNo.5の比較にあたって、サンプルや資料をご提供いただくとともに、有益なご助言を多数いただいたtanuさん(ブログ) に深謝いたします。

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 上へ外へと浮かび上がりながら香る空気の表面を成す膜と、脂肪質でマットな嵩の性質を併せ持つ香りが、他の要素を圧倒するようにトップノートの印象の大半を占める。アルデヒドだ。   

 アルデヒドとは、アルデヒド基(CHO)を持つ有機化合物の総称で、脂肪族アルデヒドや芳香族アルデヒドなどに分類される。一般的に「フローラル・アルデヒド(フローラル・アルデハイド)」*1に分類される香水の特徴として挙げられる脂肪族アルデヒドのうち、No.5にはAldehyde C-10、Aldehyde C-11 Undecylic、Aldehyde C-11 Undecylenic、Aldehyde C-12 Lauric、Aldehyde C-12 MNAが用いられているという*2

 アルデヒドに鼻が慣れると、マットなアルデヒドと好対照を成しながら、明度と透過性の高いベルガモットが、自らの境界を保ちつつアルデヒドの嵩の中で快活に点滅して感じられるようになる。

 ベルガモット精油にも、微量だがAldehyde C-10などのアルデヒドが含まれている*3。また、柑橘を用いたオーデコロンにも、概して0.1〜0.3%程度のアルデヒドが含まれているという*4。香水で初めて単体としてのアルデヒドが使われたのはL.T.PiverのFloramye(1905)*5と考えられており、エルネスト・ボーが影響を受けたというHoubiganのQuelques Fleurs(1912)にも、No.5同様Aldehyde C-12 MNAが使われている*6。つまりNo.5は、精油に含まれたアルデヒドと単体としてのアルデヒドの両方の意味において、初めてアルデヒドを含んだ香水ではない。

 しかし1921年時点では、アルデヒドが香水に用いられる際は、概ね0.3%程度とあくまで天然に存在するのに近い濃度での使用であり、植物を再現する効果が期待されていた*7。しかしNo.5には、前述の複数のアルデヒドが合わせて1.0%ほど含まれている。当時大多数を占めたであろうアルデヒドそれ自体の香りを知らない者にとって、この過剰なまでのアルデヒドは、脂肪質で浮遊感のある得体の知れない香りとして嗅ぎ取られたことだろう。ここでは、植物の模倣に使われていた香料が過剰になることで、植物を突き抜け異質なものと化している。

 ところで、No.5はしばしば、上述のように1921年当時は自然の香りの模倣のために微量用いられていたアルデヒドを、過剰と言えるほどの高濃度で使用した点が評価されている。このような「既に使われているものと同じものを、既に使われているのとは異なる方法で用いること」は、服に置き換えれば、元は男性用の下着に用いられていたジャージー素材を女性のドレスに用いたことや、喪服の色であった黒を日常遣いのドレスに用いたことを彷彿とさせるだろう。たしかに既存のものの使用方法の拡張はCHANELブランドの常套手段であったのかもしれない。しかし、No.5の功績とはそれだけなのだろうか。

 ベルガモットは快速に通り過ぎ空中に霧散した。入れ替わるようにして、アルデヒドの嵩に、ジャスミンのようで、南国フルーツのようで、バルサムのようで、しかしそれらとは異なる香りが現れた。イランイランだ。アルデヒド越しに感じられる肉厚で躍動するイランイランは、アルデヒドはそのままに、徐々に圧力を増していく。

 19世紀フランスは「慎ましさを女性のもっとも大きな美徳としていた」*8時代であった。同時に、「それとは感じられないくらいの、かすかな香りを放つ《自然な女=花》というサンボリスムは、情動をおさえようとする強い意志を映し出すものにほかならない」*9という。ここでは情動を抑圧された女性とかすかな香りの花が重ねられている。つまり、19世紀における「あるべき女性」とは「植物的な女性、透明で、繊細で、肉体を感じさせない女性、いわば動物としての属性を濾過された女性」*10であった。18世紀末から流行した淡い花の香りの香水は、脱臭された身体において初めて嗅ぎ取られることができる、まさに非肉体的な女性=淡い花の香りを表したものであると言えるだろう*11

 ところで、イランイランは1770年代にはフランスに伝わっていたが、精油の生産の開始は1860年頃にアルバータス・シュウェンガーという船乗りがマニラに迷い込むのを待たなくてはならなかった。その後19世紀末から20世紀初頭に産業が拡大し、1918年から1928年にかけて高品質の精油が大量に生産されたという*12。イランイランの香りには、心拍数や血圧を下げるなどストレスや不安の軽減効果があるとされており、しばしば媚薬と分類されることは注目に値する*13。つまりこの花は情動や肉体と結び付けられている。

 No.5の前身と言われ、No.5と多くの構成上の共通点を持つラレのNo.1では、イランイラン精油は全体の6.5%を占めていた*14。しかし、『名香に見る処方の研究』におけるNo.5の研究処方例では、全体の13%以上がイランイラン精油に充てられている*15。この変化は、類似性が強調されることの多いNo.1とNo.5の顕著な違い、あるいはNo.5の特徴としてのイランイランの役割の大きさを示すと考えられる。イランイランは、とりわけ世紀末から世界大戦にかけて現れた新しい「花」であり、情動や肉体を連想させる「花」だ。そして、そのような「花(=ブルジョワ的な女性)」でありながら、「花=ブルジョワ的な女性」ではない香りが、意図的であれ非意図的であれ、No.5を特徴付けている。この意味で女性はローズ(花)ではないのだ*16

 イランイランがアルデヒドの嵩の中から爆発せんばかりに圧をかけている。ふと、イランイランの影のようにローズが香り始めたことに気付く。人間の快のために香りを放っているのではないと思い知らせる棘は抜かれ、軽やかなステップで誘うように明るく柔らかく甘いローズだ。

 さらにローズの背景には、薄暗く緩慢なサンダルウッドとベチバー、動物の揺らぎを持つムスクが、互いに境界を侵食し合いながら香りの嵩の豊かさを示すように香っている。

 イランイランとローズにジャスミンが合流する。ジャスミンの猥雑さはアルデヒドに吸い込まれ、華やかさを際立たせながら絡み合っていく。

 その後しばらく、アルデヒドの浮遊する厚みの中で、木やムスクや花々が各々そして一緒に香る。

 19世紀末から20世紀初頭にかけて、フランスでは女性の進学や就労の選択肢が増加し、法的な権利も拡大した。マルグリットの「ギャルソンヌ」*17は「植物的な女性、透明で、繊細で、肉体を感じさせない女性、いわば動物としての属性を濾過された女性」とは異なる女性だ。たしかにこの時代、「女性」に変化が起きたと言えるが、それは一方向的で一直線的な変化だったのだろうか。

 公式サイトでは、No.5は「女性の香りのする、女性のための香り」*18とされている。ところで、19世紀の香水製造業者が主に用いた香料は、「バラ、ジャスミン、オレンジの花、カッシー、スミレ、チュベローズ」だったという*19。No.5では、ブルジョワ女性が慣れ親しんだローズやジャスミンの香りが、新しく肉体的なイランイランの香りと絡み合う。イランイラン=新しい「花」がローズやジャスミン=「花=ブルジョワ的な女性」を追放するのではなく、共にアルデヒドにおいてフローラル・アルデヒドの系列として生まれ直している。他にも、No.5では複数の取り上げ直しと生まれ直しが起こっている。植物の香りの一要素だったアルデヒドは過剰量という形で取り上げ直され、異質なものとして生まれ直した。ロシアでエカチェリーナ二世に捧げられた香水、ブーケ・ド・カテリーヌは、ラレNo.1を経て、フランスでNo.5として生まれ直している*20。もしもNo.5が「女性の香り」であるならば、その「女性」はロシア女帝でもフランスブルジョワ女性でもギャルソンヌでもなく、そのいずれかまたは全てを否定し対立する女性でもなく、それらが取り上げ直され生まれ直している多次元的な「女性」だ。

 次第に花々は霧散し、空気と嗅ぎ分けられなくなる。代わりに、それまで嗅がれながらも背景に退いていたサンダルウッド・ベチバー・ムスクが、バニラの甘さとともに際立つようになった。アルデヒドは初めほどの勢いはないものの、それによって複数要素がひとつの香りとなる輪郭を成すように、表面に浮かび上がっている。同時に、滑らかで脂肪質な嵩としてのアルデヒドの中で、あらゆる要素のエグみや尖った部分は丸め込まれている。

 その後時間が経つにつれて、輪郭が緩み各要素は拡散し、次第に嗅ぎ取れなくなった。

 No.5は、100年の時間を経て、過去の香水となったのだろうか。現行品のNo.5は100年前のNo.5と「同じ」ではない。1960年代(P)*21アルデヒドの脂肪質な厚みがPらしい濃厚さとして感じられる。1970年代(EDT)は軽やかでフルーティさが際立っており、1980年代(EDC)は透過性は高いものの動物性のムスクが肌表面に薄い膜を作る。1988年代(P)は1960年代(P)と同じくPらしい濃厚さがあり、よりフローラルが強い印象を受ける。2012年(P)は引き続きフローラルが目立って前面に出ているものの、動物的なシベットの主張も強い。2019年(P)はより動物的なムスクとシベットが際立っている*22。No.5は、100年に渡ってそれ以前のNo.5たちを取り上げ直しながら、その時々の「現在の」香水に生まれ直し続けてきた。過去の香水と呼ぶには新しすぎるのだ。

 先に、No.5は既存のものの使用方法の拡張が評価されていると述べたが、それはNo.5の説明として不十分である。No.5において、複数の取り上げ直しや生まれ直しが絡み合う多次元的な「No.5」、または公式サイトに従うならば「女性の香り」が設立されている。この設立が意味するのは、今私が嗅ぎ取っているNo.5の香りの中に、私の知らない未来のNo.5、未来の女性が気配として漂っていることなのではないだろうか。No.5は過去の香水どころか、未来に託された香水なのだ。

 

 

*1:日本香料工業会による香調の説明では、フローラル・アルデハイドは「合成香料の力強い油脂性のにおいを持つアルデハイドを特徴としたモダンな感じのするフローラルの一分野です。代表作は1922年に発売され調香の世界.に新天地を拓いたと評されているシャネルの「No.5」があります。」とされている。日本香料工業会, フレグランスのタイプ(香調), 最終アクセス2021年12月10日, https://www.jffma-jp.org/fragrance/type.html

*2:堀内哲嗣朗, 香り創りをデザインする ―調香の基礎からフレグランスの応用まで, フレグランスジャーナル社, 2010, 425.

*3:CLARK, G. S,  “An Aroma Chemical Profile: Aldehyde C-11,.” Perfumer & flavorist 22, no. 5 (1997), 43-44.

*4:CLARK, “An Aroma Chemical Profile: Aldehyde C-11,” 43.

*5:CLARK, “An Aroma Chemical Profile: Aldehyde C-11,” 44.

*6:KRAFT, Philip, Christine LEDARD, S. A GIVAUDAN, and Philip GOUTEL, “From Rallet N°1 to Chanel N°5 Versus Mademoiselle Chanel N°1,” Perfumer & flavorist 32, no. 10 (2007): 37.

*7: CLARK, “An Aroma Chemical Profile: Aldehyde C-11,” 43.

*8:小倉孝誠, “めくるめく香りに魅せられて--十九世紀フランスにおけるにおい・文学・社会,” 文学 5, no. 5 (2004), 91.

*9:小倉, “めくるめく香りに魅せられて--十九世紀フランスにおけるにおい・文学・社会,” 91.

*10:小倉, “めくるめく香りに魅せられて--十九世紀フランスにおけるにおい・文学・社会,” 96.

*11:アラン・コルバンによると、18世紀末の西欧において動物性の香水が衰退し、ハーブや花の香りの香水が流行したという。コルバンはこの時代の香水に対する考え方について、「きつい香水という覆いによってかえって自己の不潔さを人に教えてしまう愚は犯すべきではないということである。むしろ逆に、自己の独自性を示す体臭がおのずと漂いでるようにするほうが好ましい。その人の魅力を、明らかな調和によって強調できるのは、念入りに選び抜かれた、ある種の植物性の匂いだけであ」ったと述べている。アラン・コルバン, においの歴史 : 嗅覚と社会的想像力, 山田登世子鹿島茂 訳, 藤原書店, 1990, 97-100 を参照。

*12:Salvatore Battaglia, Ylang Ylang, 最終アクセス2021年12月10日, https://salvatorebattaglia.com.au/essential-oils/42-ylang-ylang.

*13:Salvatore Battaglia, Ylang Ylang, 2021.

*14:KRAFT, LEDARD, GIVAUDAN, and GOUTEL, “From Rallet N°1 to Chanel N°5 Versus Mademoiselle Chanel N°1,”42.

*15:広山均, 名香にみる処方(レシピ)の研究, フレグランスジャーナル社, 2010, 61.

*16:No.5の制作に関して、ココ・シャネルはエルネスト・ボーに、ローズの香りではなく女性の香りが纏う人から漂うような香りを作るよう依頼したという逸話がある。

*17:マルグリット, ガルソンヌ, 永井順 訳, 創元社, 1950.

*18:CHANEL, シャネルNo.5オードゥパルファム , 最終アクセス2021年12月10日, https://www.chanel.com/jp/fragrance/p/125530/n5-eau-de-parfum-spray.

*19:コルバン, においの歴史 : 嗅覚と社会的想像力, 246-247.

*20:KRAFT, LEDARD, GIVAUDAN, and GOUTEL, “From Rallet N°1 to Chanel N°5 Versus Mademoiselle Chanel N°1,” 37.

*21:以後、Pはパルファム、EDTはオードトワレ、EDCはオーデコロンを指す。

*22:各年代のNo.5の特徴は筆者の独断に基づいており、この限りではない。